仏 像

 弥勒菩薩半伽像 〜 広隆寺 (京都)

ウィキペディア:広隆寺     グーグル検索:弥勒菩薩半伽像

このサイトの新しいカテゴリである「国宝・文化財〜仏像」の最初は、この弥勒菩薩を載せようと前々から思っていました。
もう随分前になりますが、瞑想が出来るようになったころ、この弥勒菩薩からは全体的意識向上に向けて大きなヒントをもらいました。
この神秘的な感じから、私は意識的同調の基本を身に付けられると思い、よくこの像の写真をみて同調の訓練をしていました。
表情、流れるような体と指のラインは美しいだけでなく神秘そのものを感じます。
それだけでなく、この振動には、自然に自分の魂が霊的側に引き込まれそうになる静謐沈黙を強く感じます。
この弥勒菩薩像を彫った人は一体どんな人だったんでしょうか。
ここまで究極の意識を入れられる意識とは、どんなレベルの意識を持っているのでしょうか。

すでに、弥勒菩薩の測定はずっと前に終わっていますが、その測定結果を説明したいと思います。

弥勒菩薩の集中は、もちろんサハスラーラです。それはこの仏師の意識でもあります。
ここまでの意識を入れられる、要するに自分の意識(生命)を完全に仏像に入れられること自体驚くべきことです。
私が弥勒菩薩から大きなヒントを得たというのは、集中法、それも真の集中意識を感じとることが出来たからです。
当然、瞑想法も集中法と同時進行して高まっていくものです。
この弥勒菩薩のおかげで、瞑想集中法が一段とアップし自分の意識向上も加速して行きました。
この仏像の振動を読み取れれば、かなりのヒントが得られます。
それは、高レベルの瞑想、集中の基本と言ってもいいかもしれません。
瞑想も集中も、ほとんどの人は少し焦点がずれている感じがしますが、そこまでは必要ないかもしれないのでそれはそれでいいのかもしれません。

この弥勒菩薩像は、見た感じとしては瞑想中です。
しかし、意識は瞑想などしていません。この弥勒菩薩の意識は無の状態です。
しかし、無に集中しているわけではありません。
瞑想も集中もしていない、また無にもなっていない。私たちが目指すべき内的意識の回路を通って、弥勒菩薩(仏師)の魂は自由、自在の霊的世界と一体となっています。
この見た感じが、ズバリ集中の意識の表れです。
このことは、思考を通しては絶対わからないのですが、それでも最初は考えることからです。
真の理解には段階がありますので、このような世界ではすぐ出来る、簡単はありません。
これから、いろいろな仏像を見て行きますが、真の意識、私たちが本当に求める世界がいろいろな振動で見えて来ると思います。
仏像は人間が作ったものですから、当然その仏師の意識が入っています。
芸術作品にも同様なことが言えます。
あとは、仏像が置かれている場所や修行者の波動振動も考慮して慎重に分析して行くと何かが見えてくるかもしれません。
まだまだ未知な波動振動の世界ですから、とにかくいろいろ測定して行くしかありません。

とにかく、この弥勒菩薩の振動はまだまだ研究する余地があります。
私が弥勒菩薩から一番感じるのは、真理にある「美」です。
この世には、この意識に似たものはありません。

まずは国宝の仏像から測定して行こうと考えています。

 菩薩半伽像 〜 中宮寺(奈良)

ウィキペディア:中宮寺     至福!傑作仏像写真館

私はこの中宮寺の菩薩半伽像をはじめて見ました。
何となく弥勒菩薩に似ていると感じたのですが、実際の振動はどうなのかです。
写真を見ている間にも、その振動の感じはどんどん内側で感じて来ます。
そのまま意識を集中して測定に入りましたが、その測定結果にかなり驚いています。

この作品は飛鳥時代のものですが、この時代に女性の仏師がいたのでしょうか。
どうしてかと言いますと、この仏像に入っている意識は女性の意識としか思えないからです。
男性、女性の意識的振動には違いがありますので、波動振動測定ではそういうことも出て来ます。
また、ニューハーフ的な人の意識は波動的にはどう判断するのかということも出て来ます。
実際、ニューハーフ的な人の魂は女性です。
男女の無意識的なレベルの根本振動や魂自体は、霊的法則上変えることは出来ません。
前世的な何らかの意識条件で、今生は性が逆転したということになります。
これについて詳しく説明すると時間が必要ですので、話を戻します。

中宮寺は尼寺のようですので、このご本尊である仏像に集中した意識が女性的になったとも考えられます。
それか、この仏像を作った女性の仏師がいたか、のどちらかだと思います。
振動から分析推測すると、宗教的、または集中的祈りだけではこのようなレベルの振動は入らないと思います。
私は別な意味で確信しています。
この菩薩半伽像を作った、それこそ菩薩レベルの女性仏師がいたのではないかと。
それは、どうしても男性が作ったとは思えない振動だからです。

では、この菩薩半伽像の振動を説明したいと思います。
私がこの測定でかなり驚いたということを冒頭で書きました。
それはどのような驚きかと言いますと、感じさせる振動が信じられない優しさ、やわらかさ、仏教では「慈悲」というのかどうかは分りませんが、私は何でも包み込んでくれる安心感を心の奥から感じさせてくれる「愛」を感じました。
本当は、言葉では表現出来ないくらいのもので、こんな感じを受けられるものがあるのかというレベルの振動です。
集中は軽く、サハスラーラにありますが、それより強い集中がハート全体に集中し、そこから「愛」の振動が強く出てすべてに浸透していく感じです。
このような振動は、度合いは違いますがこれまでもいくつか触れたことがあります。
しかし、その中でもこの菩薩半伽像は超トップレベルです。
世界の宗教の中に癒し系のものもたくさんあります。
「マリア像」もその一つだと思いますが、それにはこのような振動レベルがあるかどうかです。

精神世界系にも癒し波動がどうのこうの、と言っているところもありますが、このレベルには足元にも及ばないでしょう。
癒し系、愛、幸運などに集中したい人は、この写真をコピーして寝室に貼っておくのもいいでしょう。
あくまで、純粋な意識的同調の気持ちであれば、自分の意識もポジティブ方向に向かって行くと思います。
どんな時でも、一番大事なことは自分の意識ですから、「宗教」といった意識からは抜けたほうが自由の感覚が付くと思います。
この仏像には、愛、幸福、喜びなどで満たされた振動はありますが、実際は今言ったこの世の感覚以上のもので満たされています。
もちろん、お寺にありながら宗教的な波動なども一切ありません。

意識的には、この菩薩半伽像は生きています。
生命の循環が感じられます。
もっと、もっと、たくさんの真理を表現したくなるようなとてもすばらしい意識そのものです。
この菩薩半伽像の顔をじっと、ずっと見てください。
きっと、うれしくなるはずです。

 阿修羅像 〜 興福寺(奈良県)

ウィキペディア:阿修羅     「阿修羅像」(興福寺)の絵

仏像には一見奇妙な形をしているものがけっこうありますが、それには必ず深い意味があると思います。
阿修羅像も、何も知らない人が見れば少し奇妙な形をしているので複雑な感じを持つかも知れません。
今回は阿修羅ですが、3つの顔を持った阿修羅には一体どんな意識が込められているのでしょうか。
それがわかれば、いつもとは違う見方でこの阿修羅に同調し何かを感じることが出来るかもしれません。
阿修羅像は3つの顔を持っていますので、一つずつ測定したいと思います。

まず、阿修羅増を正面から見た顔から測定してみました。
正面の像は胸の前で合掌しています。当然、何かを願っているか、祈っているように見えると思います。
しかし、ここから来る波動はそういうものはありません。
この意識には、自分の進むべき目ざすべき大きな目的の方向性を感じます。
それに対する自分の意志の確認と覚悟、それと同時に内的意識における仏との誓いに集中しているという意識です。
この正面の顔からは、自分がこれから進む方向への熱い情熱というものを感じます。
自分自身に対する絶対的誓いを表現しています。

次は、正面から見て右側の顔の測定です。
この顔からは、自分自身に関わるすべて、その根本意識に通ずる自己制御の意志を感じます。
感情、煩悩、すべての内的反応などを制御して行こうとする冷静な自分を見つめています。
それはハートの奥深くに、真剣に落とし込んでいる感じがしますので、「覚悟」という意識に自分を持って行く集中です。

次は、正面から見て左側の顔の測定です。
こちらの顔からは、自分の向かう目的の完全焦点化。
一心不乱、一点集中、一切の邪念を寄せ付けない強い意志、ただ一つの目的にかける思いは、自分をそれだけに狂わせるというような意識さえ感じます。
目的に向かって自分を狂わせるというのは、もちろん良い意味での絶対集中です。
よく言う「気合を入れる」というものですが、ここでは帰り道が無いといったレベルです。
そのような意識であっても、さすがと言いたくなるのは、内的には非常に冷静で静かなものです。
この阿修羅像は少年となっていますが、これが少年だとするとこの意識は菩薩レベルだと思います。

仏師はどのような意識でこの阿修羅を作ったのでしょうか。
今書いてきたことをまとめてみると、一つを目指す意識というものが強く感じられます。
この阿修羅についてはいろいろ書かれていると思いますが、私はこの阿修羅からは人間的感情が一切感じられません。
最初に、この阿修羅像全体を測定したとき、何故か私のハートの部分が興奮気味になっていました。
なぜ、このような状態になるのか、アドレナリンが血中に増えていくような感じで何か燃えて来ます。
それは、唯一の目的を意識した強い意志の表現だったということが、測定で納得しました。
3つの顔はそれぞれの意識の表現で、それが一緒になることでバランスが取れるということです。
揺らぐことのない一つに向かう内的意識のバランス、意識的バランスの三位一体を表現しているのだと思います。

このようなレベルの仏像は、人間的感情で考えるのはあまりにも寂しい感じがします。
もしその程度の仏師なら、人に訴えかけるような、また何か深いものを感じさせるようなものを作ることは出来ないでしょう。
今までいろいろなものを測定して来ましたが、物がここまで意識を語ってくれるというのは本当にスゴイ!、というだけでなく驚きです。

 十一面観音像 〜 向源寺(滋賀県)

ウィキペディア:向源寺     至福!傑作仏像写真館 

十一面観音という名の付く仏像は他にもあるようなので、順番に見て行きたいと思います。
今回は、向源寺(滋賀県)の十一面観音像の測定をしてみます。
この仏像も奇妙なもので,表面と背面では全く表情が違います。
一体この表現にどんな意識を込め,何を気づかせようとしているのでしょうか。

まずこの仏像を表面から見た測定です。
正面に見える全部の仏像の顔は、とても静かな感じです。
測定でも全く見た感じそのもので、瞑想状態の中、静謐の世界に意識を置いているといった感じです。
本当に、何も浮かんで来ない静かな意識、静謐と一体といった感じです。
意識を合わせていてもとても気持ちが落ち着きます。
この仏像のもっといい点は、静謐に意識を合わせていると、さらに奥深い意識まで沈ませるように引き込んでくれる感じがすることです。
この仏像の表面からでも、瞑想の奥深さを得るヒントがあります。

では今度は背面に回ってみましょう。
正面の静かな顔とは打って変わって全くにぎやかな顔つきをしています。
顔の測定の前に、まず背面全体からの測定です。
へぇ〜、といった感じです。
意外!あの顔からこんなことを表現しているとは・・。
その感じは喜びです。
「笑い」の表現ではありません。
そしてその喜びの中にうれしさがこみ上げてくる感じです。
本当に意外です。
では今度は後頭部の顔のアップを測定してみましょう。
はたしてどんな感じを表現しているでしょうか。

この背面から来る波動もありますが、この波動を知ってこの顔をじっと見つめているとこちらまで笑いたくなってしまいます。
なぜか、心がこの世のものから離れて自然にここから来る波動の感じに集中して行きます。
すべてが楽しい感じで満たされていく感じです。
何も考えず、自分を心から解放してこの顔だけに軽く集中してみてください。
何もせずに、楽しい気持ちにさせてくれるものはあまりありません。
まるで「お笑いの元祖」みたいな感じです。
この顔は、うれしい楽しいという波動でいっぱいです。
ずっと集中してみていると、なぜか涙が出てくる人もいると思います。
私たちは何か大事なものを忘れているということを感じさせてくれる、この顔です。

表面の静謐、その影、奥には、このような意識がある。真の静謐とは、このような喜びの世界であるということを表現している仏像です。
表向きは静かな瞑想。
瞑想はこうだと思われているかもしれませんが、本当の瞑想は真の喜びの中。
それをこのような形で表現していると思います。
ここまで意識を入れて表現出来る仏師は、本当にこの本質を知っているから出来ることです。

仏像の波動振動測定も始めて見るといろいろな発見や気づきがあって楽しいものです。
宗教の中だけの世界において置くのはもったいない感じです。
おそらく仏師たちも、人々の気づきを願って一所懸命彫ったのではないでしょうか。
宗教も精神世界もいいですけど、やはり根本である真の人間意識を求めて行きたいですね。

 百済観音像 〜 法隆寺(奈良)

ウィキペディア:百済観音     至福!傑作仏像写真館

作品には、やはり作者(仏師)の意識が入るということがはっきり分ります。
ウィキペディアに載っているものと本物の違いは振動の質です。

法隆寺の百済観音像の測定結果です。
集中ポイントはサハスラーラで、ここに特徴があります。
あとは特に目立ったメッセージ的感じはありません。
サハスラーラの振動は、じっと集中していると、本当に小さな鈴が遠くでたくさん鳴っている感じです。
その振動音にもいろいろな変化があり、つい深く集中してしまいます。
静かな心があっての集中です。

ほとんどの仏像は静かな表情のもが多いのですが、反対にハデな表情をしている仏像にはどのような波動振動が入っているのか、それにも興味が出て来ました。
今は全く想像出来ませんが。
次回はそんな仏像も調べてみたいと思います。

 十二神将・伐折羅 〜 薬師寺(奈良県)

新薬師寺    グーグル検索:伐折羅 薬師寺    

この伐折羅(ばさら)という仏像の名は知らなくても、誰でも一度は目にしたことがあると思います。
この顔は忘れることが出来ないほど強烈な表情です。
一見恐ろしく見える憤怒の形相ですけど、何かに対する激しい怒りなのでしょうか。
静かな表情をしている仏像とはまったく逆の感情を感じますが、本当はどうなんでしょうか。
私自身、宗教も何も知らないころは、このような仏像がどうしてお寺にあるのか本当に不思議に思っていました。
単純でしたから、仏がすべての宗教に何でこんなものがあるのか、という程度でした。

伐折羅の測定結果です。
こんなことがあるのか、またまたまったく予想外の結果が出ました。
やはり、真相を知るには、波動振動測定は必要だとあらためて感じます。
この伐折羅は、何に対しても腹を立てているわけでも怒っているわけでもありません。
この伐折羅の集中は、前頭部にあり、その範囲は広く前頭部全体という感じです。
その伐折羅の前頭部全体は、顔の表情から考えられないと思いますが、実は何も無い空白状態なんです。
実際、感情と冷静は一般の人では同時に表れることはありません。
では、伐折羅はどうして感情と超冷静が、自分という一つの意識で表現出来るのでしょうか。

なるほど、なるほど!
内的自己意識における客観的冷静による自在の表現ということです。
少し難しい表現ですが、自他と全体を把握することは冷静ではなくては出来ません。
表面的には怒りの表情を作っても、自分の内はいたって平静でいられるということです。
これは使えます。訓練してみれば分ります。
人間必要なときには、怒らなければならない時もあります。
そんな時、前頭部の中を拡大するようにすれば、怒りが出て来ません。
また、かなり押さえられます。
これは自分の内的に起こる感情的な感じのことを言っています。

私の知っている超一流の武術家はこんな意識状態です。
武術家で自分の中(意識)が静かというのは、誰も考えられないでしょう。
何人か測定していますので、これは事実です。
すべての強さの秘密、実力発揮はここにあるかもしれません。

この伐折羅仏像が私たちに教えてくれているのは、感情制御です。
感情的表現も必要ですが、しかしいつも内側は冷静であれ!ということです。
仏教ですから、それなりの理解で受け止めたいです。

 不動明王立像(黄不動尊) 〜 三井寺(滋賀県)

グーグル検索:不動明王立像

この仏像も拡大して見ると分かりますが、かなり恐い顔つきをしています。
「何が気に入らないの?」と聞きたくなるような雰囲気です。(失礼!)
右手には剣を持っていて、これもまるで仏教とは何の関係があるのかと思いたくなります。
それにも意味があると思いますが、何も知らない私です。
一応、平安と慈悲の仏教というイメージからそう思うだけです。

とにかく、真相は測定してみれば分ります。
測定結果です。
またまた大発見です!
この不動明王も十二神将の伐折羅と同じで、何かに対して感情を出しているのではありません。
この不動明王の集中は並みの強さではありません。
集中ポイントはアジナですが、これまで測定で知ったアジナ集中とはまったく違うものです。
非常に面白いと言ったら失礼になりますが、この集中も使えます。

これまでもいろいろな集中を見て来ましたが、なかなか誰もがすぐに使える集中はありませんでした。
でも、この集中はちょっとした訓練で使えます。
私も気づきませんでした。
この不動明王が相手にしているのは、自分のネガティブ(雑念)です。
仏教で言えば、ネガティブである煩悩という想念です。
それが修行の邪魔をするので、跳ね除けるための集中の見本ということに解釈しました。
それを教えてくれています。

何か大事な考えごとをしているとき、フト関係の無いことを頭をかすめることがよくあると思います。
それは勝手にやってくるのですが、大事な集中をしているときには、それを外せなくてイライラすることもあります。
そんな時、自分の意識を眉間の内側に集中させます。
その集中は、収縮するように、意識をそれだけに集中し見つめるのです。
ぎゅ〜っと、眉間の内側にゴルフボールが豆粒になるようにです。
そうすれば、雑念は消えて行きます。
3,4回やれば、すっきりします。
それだけに集中するのです。

恐い表情をした仏像には、もっと違うたくさんの智恵が隠されているのかもしれません。
このような仏像は、まだまだたくさんあります。
仏像の測定からは、本当にいろいろなことを気づき教わっています。
やはり、ありがたいものなんですね。
ただ、手を合わせて何かを願うものではないということを、たくさんの人に気づいてもらいたいですね。

 水月観音像 〜 東慶寺(北鎌倉)

至福!傑作仏像写真館

東慶寺の水月観音は2体ありますので、順に測定したいと思います。
まず、光背の付いている水月観音からの測定結果です。
この観音像から来る振動はサハスラーラ集中で、それ以外何もない一点集中です。
瞑想の中で、サハスラーラだけに集中し、そこから来る何かを待っているといった集中です。
無意識の中の集中であっても、意識をそこにつなげておける無意識状態と言えば難しい表現になりますが、そう言うしかありません。
もっと分りやすく言うと、無意識的にサハスラーラの集中しながら、そこから来る心地いい音に内的な耳を澄ましている、となります。

この測定でフト気づいたことがありましたので、少し話してみたいと思います。
それは、チャクラのことです。私もこの測定でチャクラのことやその振動点について書いています。
他のサイトを見てもチャクラの位置はいろいろあって、みなさんはどう思っているのかと考えたこともあります。
チャクラで振動の位置として気になるのは、一番重要なサハスラーラだけです。
サハスラーラの位置もいろいろな部分を書かれていますが、私が知っているだけでも3ヶ所あります。
本の理解不足か読み違いかは分りませんが、けっこうもっともらしく書いてあるサイトもありました。
私自身はこの28年間、ずっと今まで書いてきたとおり松果体の位置をサハスラーラにして来ました。
他では、クラウンチャクラといって頭頂やひどいものはアジナ(下垂体)をサハスラーラにしているものもあります。

別に、私の言っているサハスラーラの位置が正しいとしなくてもいいのですが、それについて私のサハスラーラの位置に関して検証してみたいと思います。
私が振動測定するときの集中は、始めから何かを決め付けたり、思い込んだり、構えたりしているわけではありません。
測定のときは、「無」です。
目は開けて意識もありますが、内的に「無」ということです。
それで、その対象から自然に感じてくる波動振動が自分の中で自然に増幅され、はっきり目に見えるような感じで分ります。
それでいろいろ感じる集中点や振動の質を、これまで勉強して来た様々な意識の性質と関連させ、大きな属性の中からさらに種類を分けることをして来ました。
その中でもサハスラーラ集中は、昔から修行でも訓練され、仏陀の最高意識をいろいろな形で表現されているように、その最高の集中点ということです。
私が自然に測定して感じる集中点については、すでにたくさん書いて来ました。
その中で、サハスラーラに振動が集中しているのは、そのほとんどが霊的に高い人の振動点だということも共通しています。
もちろん霊的だけとは言いませんが、ネガティブ性はまったくないということも特徴として挙げられます。
先ほどサハスラーラの位置が頭頂だと言っている人もいると書きましたが、霊的に高い人でその頭頂で振動を感じたことはほとんどありません。
頭頂あたりに振動を感じた人もいましたが、霊的には今一でした。
しかし、世界中で代表的な霊的人間の振動は、すべてサハスラーラの位置ですばらしい振動をしています。
精神世界でもチャクラのことを言っている人はたくさんいますが、波動振動に関して言えば間違ったチャクラ集中は後々おかしな結果になりますから注意が必要です。
波動振動をお遊び感覚で都合よく何かに使おうとしている人は、結局悪い波動に同調しやすくなるだけです。
私の仕事がらこのような人にもけっこう会っていますので、十分に気を付けてください。
これについての話もまだありますが、測定の流れでまたどこかで書くこともあると思います。

水月観音の測定の話でしたので続けます。
この観音像の振動は、結局自分の中の一点、サハスラーラだけに集中ということに尽きます。
まだ、修行中という感じです。
この観音像の顔をみてもわかるように、見ています、意識の中で・・・。
こういう集中のときは、体は動かせません。
瞑想というより、集中に近いものです。
瞑想と集中は、本質的に違うものです。
この観音像の雰囲気、顔つきなど、ここまで表現できる仏師は、やはり超一流の意識の持ち主だと思います。
現代で言えば、超一流の芸術家となります。

次に、光背のない水月観音の測定結果です。
この二つの観音は同じものかは調べていないので分りませんが、集中点や振動の強さはまったく同じです。
振動もけっこう強く、サハスラーラの集中訓練にはお手本となるくらい適しています。
2つの観音で好きな方に合わせればいいでしょう。
観音というのですから菩薩だと思いますが、この世界は詳しくないため観音菩薩とつながるというだけで言っています。
菩薩として、振動の質から見ればまだこれからというレベルで、それこそ一心に、一所懸命修行中といった菩薩クラスに入ったばかりという感じです。

 聖観世音菩薩像 〜 薬師寺(奈良)

薬師寺

またまた大発見です。
仏像からは本当にすばらしいことをたくさん教わっています。
仏像というレベルから考えても、その振動に関することは何よりも信頼出来るものと思っていますので、振動の種類、集中点は正しい集中訓練のお手本として申し分ないです。

今回の測定で発見したことは、統合の方法です。
統合って?・・・、だと思います。
分りやすく言えば、癒し系と悟り系の要となる愛と霊的集中の統合ということです。
それともう一つ、サハスラーラとアジナである、霊的意識と物質的意識のスムーズなシフト、振動の移動方法です。
神秘的な見かたをすれば、これには大変な意味があります。

あまり深いことを言うとかなり難しくなりますので、どう表現していいか迷いますが、仏陀になる前段階に通るべき菩薩レベルの修行と意識の在りかたというしかありません。
確かに、この仏像に意識を合わせていると、振動がサハスラーラとアジナをある経路をゆっくり何とも言えない感じで移動して行くのを感じます。
ただ、1分くらいこの感じに合わせているとかなりグラグラして来ますので、今の私としてはかなりきつい感じがします。

この振動集中も、慣れて行けばまた何かに応用出来ると思いますが、これまでには無い何かすごいことに発展して行けばと、そういう気持ちにさせられる振動です。
また、癒しと悟りの振動を同時に持っている、この二つの統合はこれまでの測定には無い独特な振動の感じを味わえます。

仏像の測定はこれからもして行きたいと考えていますが、仏像は本当にたくさんあります。
同じような内容の仏像を測定してもあまり感動もしません。
いろいろ測定して、その中でまた新たな発見があれば載せてみたいと思います。
仏像の測定としてはまだまだ少ないのですが、それでもかなりのことに気づけたのはありがたいことです。

 千手観音菩薩立像 〜 興福寺(奈良)

興福寺:千手観音菩薩立像

千手観音像は他のお寺にもありますが、意識集中や振動の質がみんな似ているのには驚かされます。
どのような修行の中でそれに合った意識集中をするか、仏師方もかなりの意識レベルでなければこのような振動の一致は見られないと思います。
今回の千手観音像の集中はサハスラーラにありますが、ただ今までのような「悟り系」とか「癒し系」といったものではありません。
この仏像から来る振動は、「祈り」です。
これまでも、「祈り」の集中振動はいくつかありましたが、この仏像で祈りの集中の仕方をもう一つ知ったという感じです。
また、振動測定の中で、今までにはない感じになったのもはじめてです。
これも、「祈り」の振動がダイレクトに感じたからかもしれません。

振動の感じは、2種類です。じっと感じていると、仏像の表現している意味も納得して来ます。
その振動には、「慈悲」と「慈愛」が入っています。
正面で合掌している観音から来る振動が「祈り」です。
それは、「慈悲」です。
「何とか早く意識を目覚めさせ、仏の下に来て欲しい」という本心から願う祈りです。
次に回りから伸びている40の手です。この40の手に入っている意識振動は、「慈愛」です。
仏(神)はいつもあなた達を愛し、こちらに来るのを待っている、というものです。
「この手は、どんな方法を使ってもネガティブからあなた達を守り続けるものだ。安心するがいい、もう自分のネガティブばかり見ず、こちらに意識を合わせなさい。」このような愛の振動が出ています。

測定に入り、この2つの振動を感じたとき、何となく少し切ない気持ちになりました。
「自分は何をしているのか、まだうろうろしているのか」と。
これでもいい方向に向けてがんばっているのですが・・。

何となく、今の自分を確認させてくれる仏像で、本当にいろいろな意味を持たせたものが仏像だということも、今回の仏像の測定で改めて感じました。

 大日如来像 〜 円成寺(奈良)

グーグル検索:円成寺 大日如来

天才仏師といわれる運慶25歳の時の作品。
仏像の波動振動測定は、はじめから仏像そのものに波動振動があるのではなく、そこに自分の意識(魂)を入れて作った仏師の意識レベルを感じ取ることです。
この円成寺の大日如来像は、運慶25歳の時の作品ということですが、仏師としては天才かもしれませんが意識のほうはどうかとなります。

大日如来像から知る運慶25歳の時の意識です。
この仏像の顔を見たとき、私は測定に入ることをやめ、じっとこの顔に意識を向け無にしていました。
何故なら、この仏像は生きていると感じがしたからです。
生きているというのは、生命を感じるということです。
800年以上前に作られた仏像が、今まるで生きているような生命力を感じさせるというのは、運慶はやはり相当な意識の持ち主だと感じました。
そのあと、この仏像の波動振動測定に移りました。
測定結果です。
この仏像は、ただ一点の集中点があるのみで、その振動もかなり強く感じます。
その一点集中は、サハスラーラ集中です。
この仏像の顔を見れば分かると思いますが、サハスラーラ集中の瞑想状態ということです。

運慶25歳、すばらしい意識です。
サハスラーラ集中、そして一点集中瞑想、25歳で完成しているとしか思えません。
芸術的に見ても天才かもしれませんが、それは超えているのではないでしょうか。
瞑想訓練をするなら、この集中点と振動に合わせればいいと言えるくらい、瞑想のお手本になります。
そうはいっても、だれでも意識集中点や振動などすぐわかるものではありませんが。
瞑想に早く慣れたいと思っている人は、とにかく、軽く意識を集中しながらこの仏像をじっと見ているといいでしょう。
何も考えずに、ただじっと意識を合わせていましょう。
おそらく、あなたの心も静かにしていたくなるでしょう。

 釈迦三尊像 〜 法隆寺(奈良)

グーグル検索:釈迦三尊像 法隆寺       ウィキペディア:釈迦三尊

私は仏像の波動振動測定を本当に楽しみにしています。
それは前々から仏像に興味があるからというのではありません。
そうではなく、仏像の測定によって、意識的神秘集中の秘密が多く隠されているのに気づくことが出来るからです。
今回の釈迦三尊像も驚きの意識集中を発見しました。
さっそく、測定結果の説明をして行きたいと思います。
この釈迦三尊像ですが、中央に釈迦如来、脇侍として釈迦如来から見て左は薬王菩薩、右は薬上菩薩が配置されています。
一つ一つ測定をしなければなりませんので、まずモニター上でこの像を拡大します。
そして、まず、釈迦如来の測定にはいります。
集中点です。
少し驚き、というか意外でした。
集中点はサハスラーラにあるだろうと予測していたのですが、集中点はすっと前のアジナにありました。
えっ、どうして? 釈迦如来なのに、何故アジナ?

それはそれとして、次に向かって右側の拡大した薬王菩薩に意識を向けました。
これも驚きで、何だこの集中は!といった感じです。
向かって私の右に位置する薬王菩薩の集中点は、私の左のこめかみに感じるのです。
右のこめかみは何も感じないで、左のこめかみの位置だけに強い振動を感じるのです。
こめかみといっても正確にはすこしその内側ですが。
何か訳分からないけど不思議です。

最後に、向かって左側の薬上菩薩の測定です。
拡大した薬上菩薩をモニター中央に持ってきて、じっと意識を合わせます。
エェ~! 何故こんなことをするんだ、何か意味あるのか!
やはり、驚きでした。
この左に位置する薬上菩薩の集中点は、私の右のこめかみの中なんです。
変な感じです。
私から見て、右の像からは私の左のこめかみ、左の像からは右のこめかみに強い振動を感じるのです。
何故だ!
よく考えてみると、私を中心に考えてはだめで、釈迦如来を中心に見れば納得がいきます。
釈迦如来の左の薬王菩薩は、位置的に左側に集中、右側の薬上菩薩は右側に集中しているだけです。
それが、私のこめかみにはしっかりその位置で振動が来たということです。
でも、それを感じる私から見れば、何か交差した振動で不思議な感じがするものです。

そうか、中央と左右の振動の3点か。
そう思いながら、この3つの集中点を同時に意識していると、またまた驚きの発見です。
これは、今は時間がないのでしっかり集中することが出来ませんが、またその結果を書くことがあると思います。
とりあえず感じたことだけ。
同時に、この3点集中を行っていると意識が変わってきます。
肉体の感じが薄れ、意識だけを感じ、昔私が何回か体験した幽体離脱の感じを思い出したのです。
意識しながら、不思議体験が出来る感じです。
まだ、あります。
両サイドからアジナ中央に向け同時に集中をアジナに寄せてくると、今言ったことがもっと強くなります。
次に、それをどう展開して集中していくかも見えていますが、そこまでは時間的にやれませんでした。
残念ですが、そのうち、このことをもう少し詳しく説明したいと思います。

 釈迦三尊像 【追記】 〜 法隆寺(奈良)

前回は、この釈迦三尊像の3つの集中点について書きました。
今回は、この3つの集中点の同時集中について、まだ私は2回しか試していませんが、その結果を説明したいと思います。
本当にこの三尊像の集中点は、どうしてこのように造ったのか、と最初はちょっと不思議に感じていました。
しかし、その不思議も、今は少し理解出来たかもしれません。

前回、終わりのほうで書いたことを、ちょっと分かりづらい書き方をしましたので、もう一度説明したいと思います。
両サイド(両こめかみ)に集中したあと、そこから中央のアジナに向けて集中して行くということです。
そのとき、同時集中の両方のこめかみの進み方は同じ早さで、ゆっくりアジナに寄って行くのです。
3点同時集中ですから、全過程でアジナにも集中しています。
こうすると、だんだん肉体から離れた感じが強くなり、何か不思議な感じがして来るのです。
肉体と意識、心と意識、といったものの違いがすこしは気づけるかもしれません。

その他に、感じたことです。
この3点同時集中は、なかなか瞑想に入れない人にとって、とても良い方法だと感じました。
思うように瞑想が出来ないという人に共通している問題は、雑念です。
要するに、雑念に邪魔されるため、瞑想集中が出来ないということです。
このような人は、本当に多いと思います。

それを解消するコツを掴む方法です。
まず、瞑想をするのではなく、訓練をしてください。
パソコンのモニター上に、この釈迦三尊像を出来るだけ拡大しておきます。
それをじっと見つめながら、3つの集中点を意識します。
けっして力を入れないで3つの箇所だけに集中します。
その集中は、モニターの像ではなく自分の集中点です。

これが出来たなら、今度はモニターを消し、自分のこの3点に同時集中します。
ずっと集中していると、自分の意識が顕在意識から離れたところにいる感じがしてくるでしょう。
おそらく初めて体験する感じだと思います。
もちろん、うるさい雑念なども無い、いつも感じている心でもない、不思議な感じの中です。
意識の中で、何かが映っては消えて行くかもしれません。
そうであっても、けっしてネガティブは寄って来ません。
何故なら、意識している集中は釈迦三尊像の意識集中点との同調だからです。

瞑想で言えば、この感じは「無」になったような感じというかもしれません。
実際の瞑想でいう、「無」的な意識状態とは違いますが、それでもこれを体験すれば、これからの瞑想もスムーズに入って行けるかもしれません。
私の場合は、この集中1分以内にもっと深い意識の中に入って行けます。
寝てはいませんが、意識がぶっ飛んでいる感じです。

「雑念を払って瞑想状態に入っていく感じを知る方法」としては、これは使えます。
少し訓練すれば、コツがつかめると思います。
釈迦三尊像という仏像から、こんなことを感じさせてもらえるとは本当にありがたいです。
仏像には、ただ手を合わせる以上に、本当に深い意味が隠されていると思います。
宗教的観点から離れ、意識(振動)で見ていくと、これから測定してく仏像からどんな秘密が発見出来るか本当に楽しみです。

 阿弥陀如来立像(みかえり阿弥陀) 〜 永観堂(京都)

 グーグル検索:阿弥陀如来立像

穏やかな顔つきで横を見ている仏像から、とても静かな意識を感じます。
この見かえりの姿勢から、振動測定でどんなことを感じるでしょうか。

“禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。”

(ウィキペディアから引用)『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。
禅林寺 (京都市)      2011年1月8日 (土) 12:01

それはそれとして、測定結果です。
この像には、特に強い集中点はありません。
伝承では、能動的な行為としての説明をしています。
これは、一般人のために「なるほど!」にしているか、または「本当なの?」ですが、それは私にはわかりません。
この仏像の振動から感じる意識は、受動的集中といって自分の内面に意識を向け、内なる声を聞こうとする集中に感じます。
内なる声か、または内なる何かに気づこう、とするとき、私も時々やりますが、その内的感じのままに顔を傾けたり首をひねったりする行為の一部分だと、この阿弥陀如来像から感じます。
意識の中ですが、何かその方向に焦点を当てようとする、その方向に内なる耳を傾けようとする自然な意識がそうさせるのかもしれません。

この仏像の顔を見ると、静かに内側に意識を向け、深く集中している感じを受け取ることが出来ます。
「静かに意識を落ち着けて、寂静・・・、そして意識の深みに留まる」といった感じです。