新約・旧約聖書

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聖書に挑戦!
というと少しオーバーですが、自筆のものでない、それも誰が書いたか分からない文章にどのような意識や振動が入っているのでしょうか?
聖書にあるそれぞれの文章、もしそれに意識的振動が入っているとしたら、文章ごとに違いがあるのでしょうか?
新約聖書は、内容的に同じことが書かれていると思いますが、はたして一つ一つの福音書にも違いが感じられるでしょうか?

「これが分かったからといって、何かあるの?」といったものですが、ちょっとした疑問、好奇心で振動を調べてみました。
本当は、聖書に書かれてある内容の奥にある真理に気づき、理解納得することが大事なんですが・・。
振動測定は、各文章のページを任意に選んで行っています。
測定結果です。

マタイによる福音書
非常にソフトで優しい母性的な振動を感じます。
頭の中の集中は、サハスラーラを中心にゆったりした振動が広がっている感じがします。
一番心地よく感じるのは、ハート(精神的)の部分全体が、本当にやさしくホッとするような安心に包まれるような振動です。この振動は、深いところからリラックス出来る解放の振動です。

マルコによる福音書
マルコによる福音書からは、けっこう強い集中を感じます。
集中といっても、サハスラーラやアジナに集中しているのではなく、内面に意識を集中している感じです。
何かに気づきたい、知りたい、といった受動的な集中で、じっと何かの気づきが来るのを待っているといった感じです。

ルカによる福音書
ルカによる福音書から受ける振動の感じは、頭の中が空洞でそこに振動音が反響しているといった感じです。
この集中は、マルコの福音書と違って、何かに気づきたいというよりは、静かにじっと内面に集中しているといった感じです。

ヨハネによる福音書
集中は非常に静か、そこから感じる意識は冷静とか理性といったものです。
まるで鏡のような湖面を見ているような意識で、ただじっと静かにしていたくなる感じに引き込まれます。

ヨハネの黙示録
黙示録からの感じを受けようと適当なところのページを開いているだけで、その振動的感じはすぐ来ました。
不思議な感じです。
私は、何か興奮気味になり呼吸が深くなっているのを感じています。
そのまま集中していると、何故か、焦らされる、急き立てられるといった感じがして来るのです。
言葉で言えば、「早くしろ!」「何ボヤボヤしてるんだ!」、こんな感じです。
この振動エネルギーの感じはずっと続き、呼吸も荒く胸の中も何かが騒いでいるといった感じのままです。
本当に、今、黙示録にある時代なのかもしれません。
内なる声が「急げ!」と教えてくれているのではないでしょうか。

その他いくつか、新約聖書の他の文章にも簡単に意識を合わせてみました。
やはり、それぞれの感じが違います。
印刷された文ですが、不思議にもいろいろな意識の感じが入っています。

次に、旧約聖書に意識を合わせてみました。
たくさん文章がありますので、適当に文章を選んでその意識振動の違いを調べてみました。
ちょっと意外な結果です。
新約聖書は、文章ごとに意識的振動にもいろいろな違いを感じましたが、旧約聖書はその違いがありません。
要するに、私の調べた文章はほとんど同じ意識的振動ということです。
これはどういうことなんでしょうか、私にもちょっと分かりません。

もう一つ、不思議なことを発見しました。
旧約聖書の意識的集中点です。
これも調べた文章すべてに共通していたのですが、私がこれまで測定してきた中では珍しい集中点です。
私は、旧約聖書にある意識的集中点は、これまでの測定のなかであったかどうかは、記憶にはありません。

新約聖書を信仰しているのは、私たちが知っているキリスト教です。
同じ聖書であっても、旧約聖書のほうはユダヤ教と分かれています。
キリスト教や仏教の多くは、最高の振動集中点はサハスラーラです。
しかし、旧約聖書の振動集中点は、中脳です。
中脳、どこが中脳か分からない人も意外に多いのではないでしょうか。
サハスラーラと中脳の違いが人の意識にどう関わっているかは、長くなりますので説明は省略しますが、その前に意識、神、霊に対する理解が大事です。

世界平和実現!
それは、いつの時代も宗教問題が一つの大きな壁になっています。
宗教の違いはあっても、すべては神の中ですから本来は一つでいいと思うのですが。
結局、一つにまとめられる意識まで、個人々が意識向上しなければ無理なのでしょうか。
また、何か分かりましたら付け加えたいと思います。