イエス・キリストに関連のある人物 

 ナザレのヨセフ   

ヨセフは、新約聖書に登場するマリアの婚約者、夫、イエスの養父です。

ヨセフに関しては、マリアと同じ、というよりマリア以上に知っていることは何もありません。
私の中にあるのは、誰もが知っているマリアの夫、イエスの父というくらいです。
職業は大工だったようですが、リーディングに出て来るヨセフの意識からすると、現代では超一級建築士レベルの能力があったのでは、と思いたくなります。

では、リーディングに出て来るヨセフは、どんな意識の持ち主だったのでしょうか。
リーディング内容を説明します。

ヨセフのリーディングで一番に感じたことは、集中意識のすばらしさです。
集中ポイントはアジナです。
ヨセフのアジナ集中は、これまで測定した人物にはない集中意識があります。
集中は前方に向かっている感じですが、ただこの集中が普通とは違うのです。

こんな感じがしました。
それは、その見ている先を強力に明るいライトで照らしているという感じです。
物事すべてを、そういう意識で見ているというのがはっきり感じられるくらい、集中している前方がとても明るく感じるのです。
しかも、とても澄んだ集中力でそれも広大な範囲に意識を集中しているという感じです。
千里眼意識、といってもいいかもしれません。

このような感じを受けてみると、やはりヨセフもただ者ではない、やはり選ばれた人なのか、
そういう思いになります。
アナハタの部分の意識からは、やさしさ、やはりその感じもとても広いものがあります。

潜在意識を見てみると、宇宙的、本当に大きく広い意識の人です。
全体集中、把握といったことを感じさせてくれる意識で、ヨセフの意識がどこまでも浸透しまたさわやかさも感じるので、リーディングしていてもとても気持ちよくなります。

ヨセフのリーディングで、その意識全体から強く感じることを言葉に置き換えれば、
「理性」です。


 洗礼者ヨハネ     

洗礼者(バプテスマ)のヨハネは、キリストの道を準備した者と呼ばれています。
ヨハネはイエスの使命である真理普及活動の道を準備するくらいの人物でしたが、ヨハネの最後は、当時の領主ヘロデの命令によって首をはねられて処刑されてしまいました。
無智は、ヨハネやイエスという正しい者を処刑でこの世から葬り去ったのですが、現代も形は違ってもこれに似たものを感じることがあります。

では、洗礼者ヨハネは一体どのような意識の持ち主だったのでしょうか。
アカシックレコードリーディングでは、このように出て来ました。

このリーディングは数回やっています。
当然ですが、いつも同じような感じです。
全体的な意識については後で説明しますが、先にヨハネの内的意識について触れておきます。
その内的思いはけっこう強烈で、リーディングで受ける感じですが、本当に自分のすべてをかけるといったものです。
普通で言う、信念といった重い感じのものではなく、透明感のある何かすがすがしい思いとして感じるものなのですが、何故か強烈な感じがするのです。
そのような集中、それだけの集中、これがヨハネの内的意識です。

もう一つ、これは本当にすばらしいと感じた意識があります。
それは、「純粋、超純粋!」
これだけです。
外も内も、ようするに顕在意識も潜在意識も、ということです。
このような意識も、これまでの測定では初めてです。
何か、イエスの周りにいる人は、ほとんどがこれまで測定した人とは違う意識の持ち主ばかりです。
先ほどの、透明感のある何かすがすがしい思いというのが、この純粋意識なのかもしれません。

また、ヨハネの意識には、まったく「我」という感じが少しも無いのです。
これも純粋意識ということからみれば当然ですが。
「我」とは言わないまでも、チャクラの振動ポイントでもいいのですが、それも無いのです。
どうしたら、こんな意識を通せるのだろうか、本当に不思議です。
「キリストの道を準備する」、「人々の心を神に向かう(回心)ように説いて回る」
ただこれだけをする、これ以外は何の心も無い、といったのがヨハネの意識です。

聖書を見ても、そのとおりだというヨハネの意識を感じる一節があります。
マルコ福音書での洗礼者ヨハネは、
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(1章)

マタイ福音書では、
「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(3章)

この節を読むと、ヨハネは自分のするべきことを完全にわきまえていたとなります。
それ以上もそれ以下もない、ヨハネからは本当に少しの「我」を感じるところがありません。

ヨハネはキリスト(イエス)到来の準備をし、またイエスが登場した後も、ヨハネの思いは全く変わることもなかったと思います。
自分の役目をしっかりと一生通していく、少しもブレずに、です。

本当に一つの思い、純粋意識だけのヨハネ、ということが分かったリーディングでした。



 パ ウ ロ   

パウロはイエス・キリストの直弟子ではなく、逆にキリスト教徒を迫害する側の熱心なユダヤ教徒でした。
しかし、パウロの身に起きたある出来事から、彼は回心しキリスト教徒になったのです。
それ以後は、ローマ中を駆け巡りながら、キリスト教の普及にすべてをかけた人生でした。

パウロの、この180度の変わりようは本物だったのでしょうか。
本当に回心したのでしょうか。
回心したとなれば、どの程度の意識になっていたのでしょうか。

アカシックレコードリーディングで、パウロの意識状態の変化を見てみたいと思います。
当然、180度変わったのですから、回心前と回心後の意識変化を比較するしかありません。
それで、パウロの20代後半と晩年のリーディングをしてみました。

では、パウロ20代後半の意識です。
顕在意識では、冷静、かなりの集中力を感じます。
全体を把握する力はかなりすぐれたものを持っているという感じです。
ただ頭が良いというレベルではなく、相当切れる頭脳の持ち主だったと思います。
性格的には、少し興奮気味です。
しかし、深い見方で分析してみれば、前向き、積極的な面がそう出ているのかもしれません。
冷静でかなりの集中力がある人物ですから、感情的な興奮性とは違うはずです。

潜在意識です。
パウロは、キリスト教徒を迫害する側の熱心なユダヤ教徒でしたが、潜在意識はきれいな人です。
おそらくこの頃は、ユダヤ教に固執していた一本気な人だったかもしれません。

次に、パウロ晩年の意識です。
今度は、どっぷりキリスト教に染まった意識になります。
回心したのですが、死ぬ前の意識にはユダヤ教から離れた後悔は無かったのでしょうか。

顕在意識です。
若い頃とは全く変わっています。
強いアジナの集中力は消え、アナハタの広く深い愛の振動を感じます。
同時にやさしさまで出ています。
それ以外に目立つ意識は感じません。

では、潜在意識はどうでしょうか。
まず、強く感じるのが安堵です。
それから潜在意識全体が喜びに満ち溢れています。
この喜びの振動は普通のレベルではありません。
この意識は、何かを掴んだ、自分はそれで根本から変われた、本当にその喜びだけがパウロのすべてという感じです。
本当に根こそぎ大満足、それがストレートに伝わってくるくらいの喜びそのものだといったら、少しは伝わるでしょうか。
真の「あるがまま」意識でも、ニルバーナ状態意識でも、どちらでも当てはまります。

潜在意識がこのような状態になることは、ある程度高い意識向上だけでは無理です。
これで、パウロの回心は本物だったとなりました。